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毘沙門天(金光山 満福寺) 後編


毘沙門堂入り口ふたたび荒町の毘沙門堂へやってきました。今日は8月1日、大祭が執り行われています。


参堂の露店露店が出ていますね。
夏休み中の小学生や、近所に住む方々などで盛り上がっています。


奇縁二天石参道入口左側にある「奇縁二天石」という石標です。これは前回写真を撮り忘れたので、ここぞとばかりに撮ってきました。

奇縁二天石(きえんにてんせき)
左側面「たずぬる方」、右側面に「をしゆる方」と刻まれています。迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を片側に貼り、それに心当たりのある人がその旨を記した紙を反対側に貼るように利用されたものです。

「たづぬる方」の面に「乳母を求む」とか「女中入用」「里子やりたし」などの貼り紙をして求人の希望を託すと、「をしゆる方」の面に、これに対する情けの応えがあるという珍しい風習が戦後もしばらく続いていたそうです。 この石が古来からいわれて来た氷人石で、氷人は月下氷人(男女の縁をとりもつ人、仲人)と同じ意味だそうです。

天保13年(1842)に仙台藩の侍医の棟方玄栄は、京都・長崎に遊学しました。そのとき各神社仏閣の境内に建立されてあった奇縁氷人石を見て、その利用法の利便性を聞くと、自藩にも設置したいと嘉永3年(1850)荒町の毘沙門堂境内に建立したのがこの奇縁二天石だそうです。 江戸時代の荒町毘沙門堂は、奥州街道の道筋にあたり、麹屋など並ぶ商人町で人出の多い場所だったようです。


毘沙門堂付近の様子太鼓やおはやしの音が聞こえるかと思いきや、「モーニング娘。」のカバーアルバムのようなものが流されておりました。しっとりとしたクラシックのような「恋愛レボリューション21」に思わずニヤけてしまいます。

あちこちに「毘沙門」と書かれたTシャツを着てる人がおりました。荒町商店街の方でしょうか。いいな〜と眺めてしまいました。

残念ながら私が訪れた時は、ご当地ヒーローのアラマチマンの姿はありませんでした。 ⇒我が町ヒーロー アラマチマン


お神輿お神輿がでてますね〜。活気があってなんとも夏らしい。一気にお祭り気分がアップです。


百八体毘沙門堂と子安観音堂こちらは前の記事でもふれた毘沙門堂の西側にあるお堂です。手前が百八体毘沙門堂。奥が子安観音堂です。

この画像は前回訪れた時のものです。本日はこちらの二つのお堂もご開帳されておりました。


百八体毘沙門堂の内部こちらが百八体毘沙門堂。
その名の通り、たくさんの毘沙門天が祀られておりました。


子安観音堂の内部こちらは子安観音堂。
百八体毘沙門堂どころの比ではなく、おびただしい数の像が祀られていました。お堂の中はこんな風になっていたんですね〜。


毘沙門堂の内部へさあ毘沙門堂です。
いよいよ12年に1度の毘沙門天王像とのご対面です。


12年に1度のご開帳こちらが身の丈2,7メートルの毘沙門天王像です。真っ黒なお姿で構えておりました。


毘沙門天王像の右側右側にも像が祀られています。こちらも毘沙門天でしょうか?


毘沙門天王像の左側左には観世音菩薩のような像が祀られております。


黒い毘沙門天王像前回の記事をまとめるに当たって2010年7月13日のニュース記事で、「毘沙門天王像が火災から106年ぶりに修理」というものを見つけました。以下はニュース記事の抜粋です。

明治期の火事で黒く焼け焦げ、そのまま祭られて傷みがひどくなっていた仙台市若林区荒町の満福寺の毘沙門天王像が、火災から106年ぶりに修理された。「焼けたのも史実として保存したい」と焦げた部分を削らず、炭化物を樹脂で固める高度な手法を使った。この夏、12年ぶりに御開帳される。毘沙門天王像は木製で高さ2.7メートル。仏師運慶の平安末期の作と伝わる。境内のお堂の厨子(ずし)に祭られていたが、1904年の火災で全身が焼け、表面から約1センチの深さまで炭化した。「その道の職人さんから『手の施しようがない』と言われ、そのまま祭る時期が続いた」と住職・・・。

焦げた部分を削らず樹脂で固めてあるため黒いお姿なんですね。炭化しているので所々にヒビが入ったような模様になっています。こちらにいらっしゃった方の話では、この像はケヤキの木が使われているそうです。


運慶作 毘沙門天王像この大きさ、火災を乗り越えた真っ黒なお姿、運慶の作品、12年に1度のご開帳。様々な要素が相まって、神々しく思わずにはいられませんでした。

「オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ・・・」

今一度お参りをし、この場をあとにしました。

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